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『月刊上州路』№298(1999年3月号) 下田氏(箕郷町)

『月刊上州路』 №298(1999年3月号)

 特集 上州に於ける土着の姓氏を訪ねて

 二、各氏族の紹介

(1)下田氏(箕郷町)

 箕郷町(みさとまち)にある箕輪城は、太田金山城と共に戦国期における上野武士団の二大拠点の一つであった。西上州に覇をとなえた長野業政の祖父業尚(なりひさ)の築城で、十五世紀後半に出来たものと伝えている。
 榛名山東南斜面に位置する平山城で、大きな遺構を残し、現在では公園として整備されている。戦国期における大手は、城郭東部と推定されているが、今ではこの方面から二の丸跡まで舗装道路が出来ており、車でも簡単に登れるようになった。
 しかし箕輪城を訪れるのであれば、南の方角から徒歩で城跡を訪ねるのをおすすめしたい。雑木林や桑島を抜けて周囲を眺望しながら歩いていると、本丸跡まで二十分ほども要し、城の規模の大きさが実感として伝わってくる。
 歩くにつれて視界が高まり、晴れた日であれば赤城山や妙義山、荒船等の山々も一望の下に見渡すことが出来る。榛名の峰々が高崎へ向かって駆け下り、その先には茫漠たる関東平野が広がっている。
 眼下の地には浜川砦を始め和田、倉賀野、安中、松井田等の諸城が、長野業政麾下として西上州の地を固めていた。業政の子業盛の時代になって武田信玄のために落城するのであるが、家臣団の中に”家老四家城詰衆″として下田大膳太夫正勝(しもだだいぜんだゆうまさかつ)がいた。
 大膳太夫は、箕輪落城の際に城主業盛(なりもり)に従って殉死するのであるが、その子右馬丞(うまのじょう)善春が箕郷町西明屋(にしあきや)に土着する。子孫はその後繁栄して代官等も務め、その居宅跡が現在町役場の隣りに公園風に整備されている。
 もう二十年も前のことと思うが、下田邸を訪れたことがあった。その屋敷門の宏大さに驚嘆し、訪いをして中に入れて頂いた。当時下田家に居住しておられた中年の夫人に庭を見せて頂き、
「この庭は、赤穂義士の堀部安兵衛の築庭したものですよ」
と教えて貰ったのを覚えている。
 堀部安兵衛は入り婿前の中山姓の時に、馬庭(まにわ)の樋口十郎左衛門の処で剣術修行をしていたことがある。十郎左衛門と共にこの地の門弟の指導のために下田邸に逗留し、その折に築庭を指導したと伝えている。
 今回訪ねてみると、屋敷門は移築されていたが、白壁の新しい塀が巡らされ、案内板なども出来ている。規模は縮少されたようであるが、平家建て妻入りの書院が残っており、史跡として整備されていた。
 下田氏は、古くは伊豆の下田に居住していたと思われ、関東管領の山内上杉氏に属し、管領府が上野の平井(現藤岡市平井)へ移ったのにともない移住した。
 天文二十年平井城が小田原北条氏に攻撃された際、上杉憲政は長尾景虎(後に上杉の名跡と関東管領職を受ける上杉謙信)を頼って越後春日山へ落ちた(注1)。かつての股賑を極めた管領府の面影は、現在も平井に城跡とその都邑の跡をわずかに残している。
 北関東に威令を誇っていた上杉憲政も、すでに諸将の人心を失って軍勢が集まらず、その落城は陰惨を極めた。口碑は後の永禄九年の長野氏の箕輪落城と一部を混同してそれを伝えている。
 下田氏はこれを契機として、西上野の雄長野業政の鷹下へ入った(注2)。下田姓は群馬郡箕郷町の西明屋を中心に四十数軒を数え、近世も名主や代官等を務めている。
 永禄元年正月の「上野国箕輪城軍評定着到帳」に依れば、家老四家城詰衆の一人として下田大善太夫正勝の名を挙げている。大善太夫は、武田信玄との若田原(現高崎市若田町一帯)の決戦に、白川満勝と共に二百余を率いて奮戦し、箕輪落城に際しては城主業盛に殉死した。
 その子右馬丞善春が西明屋字内出に土着し、子孫は十三代を数えている。二代理左衛門は松原寺を開基、三代重兵衛は酒造業を始める。七代理太夫からは安房勝山藩酒井氏の代官となり、飛び地の白川に陣屋を構え近隣七ケ村を支配した。
 下田氏の代官居宅は書院造りとなっており、県重文にも指定されている。同じ県重文の庭園は、赤穂浪士の堀部安兵衛の築庭と伝え、名園の少ない群馬においては貴重なものの一つである。宏壮な構えの屋敷門は現在伊香保温泉の「ベルツの湯」の庭に移築されている(注3)。
 なお富士見村や榛東村の下田氏も、大膳太夫を祖としている。(家紋は井桁(いげた))


(注1) 平井城の落城は天文21年(1552年)3月。また,上杉憲政の越後入りは永禄元年(1558年)説が有力とされている(Wikipedia)。

(注2) 文亀元年(1501年)『春日山林泉開山曇英禅師語録』の「室田山長年禅寺開堂之仏事」に「石上信州太守長野業尚公。(中略)下臣下田近江守家吉」との記載があり,下田氏は平井城落城より前に長野氏に仕えていたと考えられる。

(注3) 伊香保温泉の「ベルツの湯」の庭から,平成21年(2008年)8月,新潟県南魚沼市の最上山関興寺に「総門」として移築されている。

by shimoda88 | 2019-09-23 22:09 | 下田氏